ヌーボー梅華皮(カイラギ)

HP上のものとは 別の作品です。

アール・ヌーボーの植物様式から命名しました。
植物が天に伸びていくような縮れに 動きを感じます(HP上の側面写真参照)。

因みに「梅花皮」とは 船がゆらゆら揺れる 『動き』=かいらぐが語源だそうですが
この語源(櫂・揺らぐ)は さて置かれ
ひらがなの音に 『状態』が梅の木肌に似ているところから当て字されての
二次創造なのではと 私は思います。
(門外漢でお叱りを受けそうですが・・・ご鞭撻のほどを)

それにしても 前者も後者もすばらしい的を射た直感、理性ですね。
まさに 文字通りの「名は体をあらわす」 素性を言いえていますし
大和言葉(?)のたおやかさと叙情、漢語の明快なリアリズムとでも言ったところでしょう。

さながら「命名の美」とでもいいましょうか 「表現」と「美」が 優れた感性によって一体化し
「表現」自体が偽りの無い民俗や環境、そして 普遍性のある価値をも反映して
「美」に昇華していますね。

平たく言えば 「ことば自体が美しい。 表現=美」 ということですね(^_^)/

「梅花皮」という言葉は 私が求める 「釉藝の美」の方向性を示唆しています。
焼成と釉薬による摂理表現技術そのものが普遍性(作家個人や時代風潮ではなく)
それ自体が美 ---これが釉藝の眼目であり醍醐味です。

ですから 決して 絵具を使い 筆で描くことはありません。
偽りの無い摂理こそ 「真」と「美」を兼ね備えることが出来るのです。

さて、さらに分析を進めますと
朝鮮語かどうかは わかりませんが 半島で作られた井戸茶碗の
高台に見られる「縮れ」を 呼び習わしたものが
現在、陶芸の世界に残っているのみで 死語に近い言葉なのでしょうが
施釉され器肌を覆ったた釉薬が ある一定条件の元で
実際に窯の中で「動いた」もので 飛び散ったり 削れたりしたものではないことを
焼成中に確認したわけでも無いのに 昔の人は結果から直感で素性を当てているわけです。
(現在では映像資料として 撮影されているようですが)

現在止まっている対象を見て 「動きを感じる」のは
実際には 釉薬が動いた後の「結果」 を見ているにもかかわらず
人に備わった感性が 「過去に動いた記録」を捉えているのではないでしょうか?
理性のみでわからないことでも 感性で知るという証明にもなろうかと思います。

実際、梅ノ木も 成長し太くなる(動く)幹に対し 硬い皮の弾性がついていけずに
ところどころ裂けて 成長による膨張を逃がすために 縮れ現象をみせ特有の肌合いになっています。
時間を短縮するカメラの撮影映像を見たら恐らく
小船が揺れ動くように 木の皮も そして釉薬も動いているのではないでしょうか。

与えられた情報を理解する競争が 受験戦争を通し 知識偏重で実践には役立たずな没個性を作っています。
固定概念に囚われず 自由に感性を開放し 本質を捉える 洞察力=直感が創作=科学や芸術、文化には必要です。

従来の「陶芸」はせいぜい
キズとせず 「景色」として活かすという解釈止まり で
表現技法を積極的に開発するという方向性よりも
既存技法や写し それに個性と称したやりたい放題 に 偏り
その創造性も 既存範疇での 単なる掛け合わせの域に沈んでしまったようで
骨董品や下手物を撫でさすってばかりいて
本当の創作といえるかどうか ?

枠に嵌り 与えられた絵具で 上手に模写したり
はたまた 落書きなんて私は満足がいきません。

絵画と違い 動いているように見せるのではなく
実際に焼成で動かすのが 私の提唱する【釉藝】です。

「摂理」を 私は表現様式として研究しています。
目指すところは 「曜変」です。
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今回は 話が脱線し コアな展開になりましたが ・・・
写真の作品は 「プリンス」(HP参照)には出ている結晶が交じり合い 流下し
茶だまりの中では 雲が湧くような変化が起きています。
釉薬の上層、下層、そして縮れによる変化の多様性・・・
冷却段階での貫入変色等も見られ
釉薬の動きがこれほど 一つの盌で多様に現れているものは 他に無いと思われます。